長洲未来 タトゥー
長洲 未来(ながす みらい、英語: Mirai Aileen Nagasu, 1993年4月16日- )は、アメリカカリフォルニア州モンテベロ出身の女性フィギュアスケート選手(女子シングル)。 2010年バンクーバーオリンピック4位、2016年四大陸選手権2位、2008年全米選手権優勝。
人物[編集]
元々は両親とゴルフを習っていたが、5歳の頃に悪天候の日に代わりに近所のスケートリンクに遊びに行ったことがきっかけで初めてスケートをする[2]。2007年に全米選手権ジュニアクラスで優勝するまで資金不足で、同選手権に参加するために所属クラブがエキシビション大会を開いて長洲の渡航費を稼ぐ[3]。優勝後、日本スケート連盟が長洲に日本への移籍を打診する[4]。
日本語は話せるが、読み書き(特に漢字)は苦手。今後も、米国代表として出場する意向を示している。[5][6]
好きなフィギュアスケート選手名として浅田真央、金妍兒、ミシェル・クワンを挙げると同時に、全てのスケート選手になんらかの好きな点があると述べている[7]。
国籍留保によるアメリカと日本両国の国籍を保持していた[8]。「自分はアメリカ人だと思うか、それとも日本人だと思うか」との問いに対し「どっちもかな」と答えるも、生活の中でアメリカ人であることを自覚する部分もあり、自らを「日本が大好きなアメリカ人」と表現する[9]。また、「日本からもアメリカからも手紙が届くのですごくうれしい、2つの国の人から応援してもらえる境遇にある私はすごくラッキーだと思います」などと述べている[10]。その後、日本の国籍法により22歳の誕生日までに日米どちらかの国籍を選ぶ必要があり、2015年にアメリカ国籍を選択した[11]。
経歴[編集]
2002-2003シーズンから全米選手権予選に出場する。 2006-2007シーズンに全米選手権本選に初進出、ジュニアクラスでキャロライン・ジャンを破り優勝する。初めての国際大会となる世界ジュニア選手権で2位となる。
2007-2008シーズンはISUジュニアグランプリに参戦。1戦目のJGPレイクプラシッドで初優勝、2戦目のJGPクロアチア杯でも優勝し、初出場のJGPファイナルでも優勝。さらに全米選手権シニアクラスで優勝。14歳9ヶ月での全米選手権優勝は長野五輪優勝のタラ・リピンスキー(14歳7ヶ月)に次ぐ若さである。また、全米ジュニア・シニアタイトルを連続で獲得するのは1937年-1938年のジョーン・トザー以来、実に70年ぶりであった。このシーズンの世界選手権には年齢制限のため出場せず[12]、2年連続出場となった世界ジュニア選手権では3位となる。
2008-2009シーズンはシニアに移行しISUグランプリシリーズに参戦する。体の急激な成長や右足首の怪我などにより調子を落とし、スケートアメリカは5位、NHK杯は8位と低迷、ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ全米選手権は5位に終わる。出場予定だった世界ジュニア選手権は足首の治療に専念するため辞退し、オフシーズンの5月、コーチをシャーリーン・ウォンからフランク・キャロルに変更すると発表した。
2009-2010シーズンのグランプリシリーズにて中国杯は5位、スケートカナダは4位となる。選考会も兼ねた全米選手権で2位となり、バンクーバーオリンピックアメリカ代表に選出され、初出場ながらも総合4位入賞を果たす。同じく初出場となった世界選手権では、SPでパーソナルベストを更新しトップに立つも、FSで崩れて総合7位に沈んだ。
2010-2011シーズンは夏に右足首を疲労骨折し、9月から氷上練習を再開したこともあり、調整不足のまま大会に臨むこととなった。中国杯は4位、エリック・ボンバール杯は2位になり、GPシリーズ参戦3年目にして初のメダルを獲得。全米選手権は3位となり、世界選手権アメリカ代表2枠から漏れてしまう。四大陸選手権ではFSのパーソナルベストを更新し、3位となった。
2011-2012シーズン、ネーベルホルン杯でシニアの国際大会初優勝。全米選手権では過去最低の7位に終わる。シーズン終了後、フランク・キャロルとの師弟関係を解消した。練習リンクの場所が自宅から2時間の場所にあり、移動に疲れてしまうというのが理由である[13]。その後、新たにウェンディ・オルソンとエイミー・エビデンスに師事をする[14][15]。 2012-2013シーズン、フィンランディア杯では3位。NHK杯は当初エントリーされていなかったが、アリッサ・シズニーの代わりに出場し、ピンチヒッターながら3位に入った[16]。全米選手権はSPで3位スタートを切ったが、大会直前に罹ったインフルエンザの影響もあり、総合で7位に終わった[17]。
2013-2014シーズン、NHK杯では8位。FSでは採点システムのトラブルで滑走前に20分間待たされるトラブルに見舞われた[18]。ロステレコム杯では銅メダルを獲得。大会後にはエイミー・エビデントとの師弟関係を解消。12月下旬には岡山に滞在し、無良隆志の指導を受けた[19]。コーチ不在のまま挑んだ全米選手権は3位となり3年ぶりに表彰台に立つ。ソチオリンピックの米国女子シングル代表は3枠だったが、4位のアシュリー・ワグナーの実績が評価された選考により、二大会連続の冬季五輪出場はならなかった。3月にコロラドスプリングスで練習を始め、4月の中旬にはトム・ザカライセックにコーチ就任を依頼し練習拠点を移すことになった[20]。
2014-2015シーズン、全米選手権ではSPで4位につける。しかしFSでは膝の過進展と軟骨の負傷が影響し、4つのジャンプで回転不足判定を受ける精彩を欠いた演技となった[21]。総合10位は過去最低の順位となった。
2015-2016シーズン、ネーベルホルン杯のSPで、初めて3回転アクセルに挑戦。ダウングレード判定を受けた上に、他のジャンプにもミスが出て11位となった。FSでは2位で総合5位に順位を上げた。全米選手権ではSPの演技の途中でスケート靴が裂けるアクシデントがあった。FSでは修理した靴で滑り、2年ぶりにメダルを獲得した[22]。四大陸選手権では2位となり、5年ぶりのメダルを獲得。バンクーバーオリンピック以来6年ぶりに、総合得点の自己ベストを更新した。世界選手権には、ポリーナ・エドモンズの欠場により補欠から繰り上がり[23]、6年ぶりに出場し10位に入った。
2016-2017シーズン、オータムクラシックのSPで、2010年世界選手権以来7シーズンぶりにパーソナルベストを更新し首位に立った。FSではジャンプの回転不足が目立ち点数が伸び悩むも、SPのリードを守りきり優勝した。
2017-2018シーズン、シーズン初戦の2017年USインターナショナルクラシックのSPにおいて、初めて3回転アクセルに挑戦し着氷。オーバーターンしたため出来栄え点はマイナスであったが回転不足はつかず、ISU公認大会での初認定を受けた。さらに翌日のFSでも挑戦し、よりクリーンに着氷。わずかに出来栄え点での減点を受けたが再び認定された。これにより女子選手としては史上8人目(米国選手としては2人目)となる国際大会での3回転アクセル成功者となった[24][25]。全米選手権では3アクセルのミス以外は完璧に決め、2位となり2大会ぶりのオリンピック代表を決めた。
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